[編集] 韓国軍の参戦 南ベトナムの民家を点検するアメリカ軍兵士大韓民国の朴正熙政権はアメリカの要請により、1964年に最初の海軍部隊を派遣した。米国はその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった技術者・軍人・建設者・用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(60年代後半の五年間で17億ドル)などによって韓国は高度成長を果たした[1]。 FX取引、FX初心者、くりっく365、FX口座開設、FX資料請求 1965年10月には陸戦部隊である猛虎師団1万数千を派兵して本格的に参戦、国内の最精鋭部隊を投入して、1973年3月23日に完全撤収するまでに最大約5万人、のべ35万人以上の兵力をベトナムに投入した。 FX 韓国軍は北ベトナム兵などを約4万人(公式記録)殺害、ベトコンとの戦闘での損害比は36:1(アメリカ軍は12:1)であり、北ベトナム軍司令官が、韓国軍との戦闘は避けるように通達した程であった。また、アメリカの新聞にも「Demon-Hunter」と紹介されるなどした。韓国軍の犠牲者も戦死約5千、負傷約2万に上った。オーストラリア、ニュージーランド、タイ王国を含むSEATO(東南アジア条約機構)もアメリカの要請によりベトナム派兵したが、韓国軍はSEATO派兵総数の約四倍の規模で、アメリカ以外の国としては、最大の兵力を投入した。米韓の協定により、派兵規模に応じた補助金と対米移民枠を得られたこと、軍事統制権をアメリカが持っており自身に権利が無かったこと、北朝鮮や中華人民共和国などの軍事的脅威を身近に感じていたため、共産主義勢力の伸張に対して強い危機感を持っていたことが理由である。 FX この派兵の際、各地で韓国軍による戦争犯罪があったとされ、アメリカ軍、南北ベトナム軍と同様に、韓国軍兵士によるベトナム人住民虐殺や婦女レイプが起こった[2]、また韓国人とベトナム人女性との間に多数の韓越混血児が生まれたことが確認されている。 詳細はライタイハンを参照 FX [編集] チュー大統領就任 グエン・バン・チュー大統領戦争の拡大により混沌とする状況下にあった中、1967年9月3日に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年6月19日に発生した軍事クーデター後に南ベトナムの「国家元首」に就任し、実質的な大統領の座にあったグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て正式に南ベトナムの大統領に就任した。 なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して「不正選挙である」と反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思を示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。以後、強烈な反共産主義者であるチュー大統領の下、南北の対立は激しさを増してゆく。なお、この後チューは1971年の選挙で再選された後、1975年4月のサイゴン陥落直前まで南ベトナム大統領を務めた。 FX [編集] 反戦運動 戦争の現場である南ベトナムでは、南ベトナム解放民族戦線の後援(つまり北ベトナム政府の後援)を受けた市民を中心に反戦運動が行われていた。反対に戦争支援を訴える運動も、南ベトナム政府とアメリカの大掛かりな支援のもと数多く行われていたといわれている。一方、戦地から遠く離れているものの、テレビ中継により多くの国民が戦闘を目の当たりにしていた「戦争当事国」のアメリカでは反戦運動が高揚していた。 ホワイトハウスで公民権運動の指導者であるマーティン・ルーサー・キング・ジュニアと会談するリンドン・・ジョンソン大統領 反戦運動を行うアメリカの大学生また、1963年に奴隷解放100周年を迎え、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアを中心にした黒人(アフリカ系アメリカ人)による人種差別撤廃闘争、いわゆる公民権運動が活発化していたこともあり、これらの公民権運動が転じて反戦運動に同化するケースも多くみられた。そのような中で、大学自治を求める白人の学生運動が公民権運動と結びつき、アメリカの若者を既存体制・文化から反発させる風潮が次々に作られた。ベトナム反戦運動はこれら若者の心を捉え、ヒッピーやフラワーピープルなどと共にブームとして一層盛り上がることとなる。 1967年には最大で50万人を超えるアメリカ兵がベトナムに投入されたが(そのほか、大韓民国、オーストラリア、フィリピンなどの同盟国軍将兵約5万人)、ソ連や中華人民共和国による軍事支援をバックに、地の利を生かしたゲリラ戦を展開する北ベトナム軍(および南ベトナム解放民族戦線)と対峙するアメリカ軍(および南ベトナム軍)にとって戦況の好転は全く見られなかった。その上にアメリカ政府は、莫大な戦費調達と戦場における士気の低下、国内外の組織的・非組織的な反戦運動と、テレビや新聞、雑誌などの各種メディアによる反戦的な報道に苦しむことになった。1967年4月にはニューヨークで大規模な反戦デモ行進があり、10月21日に首都ワシントンで最大規模の反戦大会が催された。さらに翌年1月にはテト攻勢(後述)によって反戦運動は大きく盛り上がった。 また、アメリカでは作家や芸能人などによる反戦運動も盛んに行われた。その様な中で、1972年に「アメリカ兵のための反戦運動」として北ベトナムを訪れたアメリカ人女優のジェーン・フォンダは、飛来したアメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットをかぶり高射砲を打つポーズをとった。この時の写真は世界中に配信され、後にフォンダは「祖国への裏切り行為で判断の誤りだった」と釈明したものの、この後長年に渡りベトナムに派兵されたアメリカ軍兵士や帰還兵、その家族を中心に「裏切り者」、「ハノイ・ジェーン」などと呼ばれ大きな批判を浴びた。 また、ビートルズ解散後のジョン・レノンも解散後活動拠点を置いていた(後に永住権を獲得)アメリカにおいて反戦活動を行った。その主張は強硬かつ一方的なものであり、かつ若者への影響力が強かったため、アメリカ政府から国外退去を命じられるほどであった。 同時期には日本やフランス、イタリアなどの当事国ではない西側諸国でも、勢いづいた左翼学生を中心とした運動と絡めた形で大規模な反戦運動が行われていた。なお、当時これらの西側諸国で行われた、「ベ平連」などの共産党や共産主義シンパの左翼政党(日本の社会党など)や団体をはじめとする北ベトナムに同情的な左翼勢力による多くの組織的な反戦運動に対して、ソ連が資金的・物理的援助を行っていたことが戦後当事者の話によって明らかとなり、多くの批判を受けた。 [編集] テト攻勢 サイゴン市内に放置される南ベトナム解放民族戦線のゲリラ(ベトコン)の死体詳細はテト攻勢を参照 旧正月(テト)休戦を打診したものの拒否された北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。しかしすぐに体勢を立て直した南ベトナム政府軍とアメリカ軍の反撃を受け、南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、2月1日にジョンソン大統領はテト攻勢の失敗を宣言し間もなく戦闘は終結した。テト攻勢で南ベトナム解放民族戦線が事実上壊滅したことにより、その後のベトナム戦争は、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。 テト攻勢は軍事的にみては大きな失敗であったが、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵により南ベトナムの首都・サイゴンにあるアメリカ軍の放送局が占拠され爆破された他、わずか20人の南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵が、「要塞」とも称されたサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土で生中継されるなど、北側勢力の政治的効果は高かった。 また、テト攻勢の最中に、南ベトナムのグエン・カオ・キ副大統領の側近であるグエン・ゴク・ロアン警察庁長官が、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校、グエン・バン・レムを路上で射殺する瞬間がテレビで全世界に流された。以前レムはロアンの関係者家族を皆殺しにしていたとはいえ、まだ裁判すら受けていないレム容疑者を、南ベトナムの政府高官自らが報道陣のカメラを前にして路上で射殺するという衝撃的な映像は、世界中に大きな衝撃を与え、ベトナム戦争に対する各国の世論に大きな影響を与えた。また、この瞬間を撮影したアメリカ人報道カメラマンのエディー・アダムスは、その後ピュリッツァー賞の報道写真部門賞を受賞した。